shoryu20の忍たま日記

『忍たま乱太郎』について色々と書いていくブログです。藤崎竜さんの『封神演義』のレビューも書いています。

「未来視たちのディアレクティーク㊤」 『封神演義』第23回

「未来視たちのディアレクティーク㊤」
封神演義』第23回

 

ここで封神計画の展開が一つ大きく変わる。
まず元始天尊の指示は「妲己とその手下365人を倒して封神しろ」だったが実際には封神の書には180余名の名しか記されておらず、さらに仙道ではない紂王と両太子の名が記されていた。他にも仙道ではない姜妃の魂が封神される等、最初の説明とは大きく異なる出来事が起きた。
この辺りの説明は次回で行われるのだが、太公望は第1回の時点で封神の書に記された名前を見ているので、最初の封神を行う第2回の時点で既に元始天尊の指示におかしい点がある事は分かっていたと思われる。おそらくだが次回で語られる「殷周易姓革命を起こす」と言う封神計画の真の目的も太公望は第2回の時点で推測していたのかもしれない。
しかし、太公望は多くの犠牲が出るのを好まないので、殷周易姓革命を起こさずとも妲己一人を倒せば良いはずだと考えたのではないだろうか。最初の封神から妲己に戦いを挑むまで太公望はかなりの駆け足で物事を進めているが、それは殷周易姓革命を起こさない為にも早く妲己を倒さなければいけないと言う焦りがあったのかもしれない。その結果、調査が不十分のまま妲己に挑む事になり、胡喜媚の存在を知らなかった事から手痛い敗北を喫する事になってしまう……。

 

両太子の行動に申公豹は怒りをあらわにする。いつもポーカーフェイスの申公豹がここまで怒りを見せるのは珍しい。ここまでの怒りを見せたのは両太子の行動が申公豹の美学に反するかららしいが、そもそも彼の美学とは何なんだろうか?
申公豹が自分の美学について直接語る事は殆ど無いが、歴史を裏で操ると言う点では同じである聞仲と女媧に対し、聞仲の事は認めている節があるが女媧の事は自分の美学に反すると言っている。では、聞仲と女媧の違いは何なのかとなると、聞仲は人間界を良くしようと思って動いていたのに対し、女媧はあくまで自分の見たかったものを見る為に動いていたとなる。そう言えば、申公豹が太公望を認めた理由の一つが「民を守りながら自分に一矢を報いた」だったので、申公豹の美学とは「人々の為に動けるか否か」になると考えられる。
両太子だが、兄の殷郊は事情を察知する能力に長けていて愚鈍には見えないのだが、そこで出した結論が「自分達では母親の敵は討てない」「帰っても味方がいない」「妲己に殺される」だったのが申公豹の怒りを買ったのかもしれない。同じ朝歌を脱出するにしても「妲己を倒す為に外に出て味方を作る」と言う意思があったのなら、申公豹はここまで怒らなかった可能性がある。
因みに両太子は後に再登場するが、ここで兄の殷郊は自分なりに考えて行動するようになっていて、そんな殷郊を見て申公豹も評価を改めたのか、この時の彼は厳しい態度を見せず、むしろ「金鰲島の動きが気になる」と情報を与えている。と言うのも、両太子をここで死なせるのが目的なら殷郊に金鰲島の事を教える必要は無いはず。ここであえてそれを口にしたのは「殷を守りたければ、この太公望との戦いに勝った後、今度は金鰲島の動きを気にしなければいけない」と言う申公豹のアドバイスだったのかもしれない。

 

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