「あとしまつ㊦」
『封神演義』第204回
4年に亘った連載も遂に最終回。
『封神演義』の終盤を読んでモヤモヤしたものを感じる人もいると思うが、おそらくそれは「主人公の太公望」と「敵キャラの王天君」と「全ての始まりである伏羲」が同一人物だったからであろう。しかもややこしい事に太公望と王天君が融合して王奕になった後、太公望と王天君と伏羲の人格がよく分からなくなった。伏羲の記憶を引き継いでいるのは確かだが、今の王奕は太公望の人格なのか伏羲の人格なのかイマイチ明確にされていない。女媧との戦いの後も、伏羲の人格なら女媧と一緒に消えるべきだったと思うし、王天君の人格なら蓬莱島に残るのは難しいだろうと思うし、太公望の人格なら素直に蓬莱島に戻れよと思う。でも、今の王奕は伏羲なのか王天君なのか太公望なのか、まずそこが分かり難い。
『ウルトラマンA』は北斗星司と南夕子が男女合体変身してウルトラマンエースになるのだが、3人の人格は分けられていて、北斗の人格が出ている時は北斗の声に、南の人格が出ている時は南の声に、エースの人格が出ている時はエースの声になっていた。これと同じように王奕も太公望と王天君と伏羲の人格をもっと明確に分けても良かったと思う。
因みに『ウルトラマンA』で3つの人格と声を使い分けるのが大変だったのか、次作の『ウルトラマンタロウ』では東光太郎とウルトラマンタロウの声を一緒にしているのだが、これによって同じ声なのに場面によって「自分は天涯孤独」と言う人間の話をしたと思いきや「自分にはウルトラ兄弟が5人いる」と言うウルトラマンの話をしたりと非常にややこしい事になり、最終回での「ウルトラマンの力を捨てる」と言う決断も人間・東光太郎が下したのかウルトラマン・タロウが下したのかで解釈が割れる事となった。
話を戻すと、自分は『封神演義』をレビューする上で、女媧と話をしている時は伏羲の人格が、四不象や申公豹とかと話をしている時は太公望の人格が出ていると場面によって使い分けていると解釈する事にした。
武王の様子を見に行った事で太公望の生存を四不象と武吉が知る事となり、あちこちを探し回るも結局は太公望を見付ける事が出来なかった。その太公望は実は四不象達の後ろを付いて回っていて、それに気付いた李靖と殷氏がニヤッと笑っている場面がある。この李靖の笑みは「幸せの青い鳥のように自分達のすぐ近くにいる太公望を見付ける事が出来ない四不象達の事を笑った」と考える事が出来るが、ここでちょっと違う考えを挙げてみたい。
そもそも太公望は何故武王の所に行ったのか? これに関しては新しい人間界の様子を見たかったからで説明できるが、それでも遠くからこっそり見れば済む話で、直接会いに行ったら自分の生存がバレてしまうのは当然となる。これ以外にも李靖やスープーパパにも見付かっている(最初の人の能力を使えば元始天尊の千里眼からも逃れられるので、李靖に見付かっているのは太公望がわざとそうしたからと考えられる)し、桃の木にハゲ薬をまいて満開にしたりと目立つ事もしている。
これら太公望の行動を見て考えられるのは一つ、「太公望はわざと見付かろうとしていた」だ。
皆の前から姿を消しながらも、わざと痕跡を残して誰かが自分を見付けてくれるようにし、それなのに自分を探す四不象達を隠れたところから見ていたりする。まるで家出した子供が本心は皆の事を気にしていながら表向きは気にしていないように振る舞っているのと同じである。ぶっちゃければ「かまってちゃん」。
こうして考えると、李靖の笑みの理由も変わってくる。最初に読んだ時は「太公望達を見付ける事が出来ない四不象達の事を笑った」と見えるのだが、実は「皆の所に帰りたいくせに変な意地を張っている太公望の事を笑っている」のだ。まるで「家出したウチの兄を見ませんでしたか?」と尋ねに来た弟達と、その弟達に見付からないように隠れて様子を見ている兄を見て「やれやれ、しょうがない子だねぇ」と言っている近所のパパさんママさんのように。
最終回の太公望の行動の真意は何か?
伏羲にしろ王天君にしろ太公望にしろ、これまで封神計画を達成する為に様々な犠牲を払いながら進んできた。特に太公望は幼少時に家族を失い、仙道のいない人間界を作る為に人生を捧げてきた。太上老君との話でも羌族の老人との話が自分のスタートだったと言っている。そして妲己は消え、女媧が倒された事で封神計画は完了し、太公望は遂にゴールに辿り着いた。
では、彼はこの先どうすれば良い?
伏羲も王天君も太公望も封神計画を達成する為に色々とやって来たのだが、達成した後に自分は何をするかと言うビジョンが無かった。もっとハッキリ言えば「生きる目的を失った」。だから女媧の「一緒に消えてくれ」に対して「ま・いっか…」と消極的にだが受け入れる事が出来た。
だが結局は太公望は妲己によって救われ生き続ける事となった。では、これからどうするのか。生きるのかやっぱり死ぬのか。今の太公望はそこを決められないまま宙ぶらりんな状態になっている。もし、蓬莱島に戻ればそれは「生きる」事を選択する事である。しかし、まだ「生きる」事を選択する気持ちが固まらない。かと言って自ら積極的に「死」を選択する気持ちにもなれない。結果、蓬莱島には戻らないが、完全に姿を消してしまう事も出来ない、どっちつかずなブラブラな状態になってしまったのだ。
そんな太公望の前に申公豹が現れて勝負を挑む。
何故ここで申公豹は太公望に勝負を挑んだのか?
おそらくだが申公豹は今の太公望の生きる事も死ぬ事も選択できないどっちつかずな状態を見抜いていたのだろう。だから、申公豹は太公望に一つの「選択」を与えた。
仙道や始祖は長寿で不老不死である。宝貝を使っての戦いでもなければある日突然命を落とすと言う事は無いであろう。つまり、申公豹が最強宝貝・雷公鞭を取り出して太公望に勝負を申し出たのは「生きる目的を失ったのなら私が殺してあげますよ」と言う意味になる。だから申公豹は「最後に」と言う言葉を使った。つまり、これが太公望にとっての「最後に」なると言う事なのだ。
しかし、申公豹は太公望の目がまだ死んでいない事、つまり、太公望は「生きたい」と思っている事を見抜き、勝負を取り止めるのだった。
ここからは推測なのだが、申公豹は太公望の事をライバル視していて、この最終回でも太公望とのケリを付けてしまったら(つまり、太公望が死んだら)、この先つまらなくなると言っている。もし本当に申公豹があのまま勝負をして太公望を殺してしまった場合、申公豹のその後の人生はどうなっていたのだろうか? ひょっとしたら、今の太公望と同じように生きる目的を失うかもしれない。
ここで本当に太公望を殺したら自分の生きる目的も無くなる。でも、太公望が生きる目的を失っているのなら自分が殺してあげる。こう考えると、申公豹は太公望と一緒に自分も死ぬつもりだったのかもしれない。つまり、申公豹の勝負の申し出は「生きる目的を失ったのなら、私も一緒に死んであげますよ」と言う意味だったのかもしれない。
申公豹に「あなたの目は死んではいなかった」、つまり「あなたは生きたいと思っている」と指摘された太公望は大きく息を吐くと前に向かってテクテクと歩き出した。
「さーて…。どこへ行こうかのー」。
この後、太公望がどこでどう生きたのかは描かれていない。この漫画の続きが史実と同一とは限らないし、この漫画の続きを藤崎竜さんは描いていない。
でも、この漫画を読んだ人の心の中には太公望のその後の姿が浮かび上がってくるのかもしれない。
(完)