翔龍shoryuの忍たま日記

『忍たま乱太郎』について色々と書いていくブログです。『ドラゴンボール』や藤崎竜さんの『封神演義』のレビューも書いています。

「喜望」 『封神演義外伝』最終回

「喜望」
封神演義外伝』最終回

 

『外伝』もいよいよ最終回。
アニメ『仙界伝』は漫画版から殷周易姓革命を中心に物語をコンパクトにした作品だったが、その後に発表された漫画『異説』も本編から殷周易姓革命を中心に物語をコンパクトにした話になっていた。
そしてアニメ『覇穹』は時系列をシャッフルする事で漫画版の有名・人気のキャラや場面を揃えた作品だったが、同時期に発表された漫画『外伝』も時間を弄る事で多くのキャラが揃う話になっている。
こうして見ると、藤崎竜さんはアニメが選択した手法を使って『異説』や『外伝』を書いたのかなと思う。

 

妲己が孔宣の殺劫を満足させる為に大がかりな祭を用意してくれた事に太公望は「かたじけない」と礼を述べる。
これは「今の太公望」だから言えた言葉だったと思う。「魔家四将戦時の太公望」では妲己の真意が分かってもそれを認めて礼を述べるには葛藤がありそう。

 

今回の申公豹は雉鶏精の出現を知ると「未来が変わるのを阻止しようと何者かがやって来る」として「見物に行かざるをえません」と語っていた。申公豹はこの「何者か」を「未来の太公望」と推測していたので、今回の申公豹の目的は「未来の太公望を見る」となる。
「皆にまた会えて嬉しかった」と言い、「かたじけない」と妲己に礼を述べると言う「自分が知っているのとはちょっと違う太公望」を申公豹はどのような思いで見ていたのだろうか……?

 

太公望が孔宣にかけた「また派手にやろう!!」と言う言葉。
今回の殺劫を巡る戦いは因縁や使命や利害と言ったものが一切無い「戦う事自体が目的の戦い」であった。その為か、派手で大規模なのだが悲壮感や殺伐としたものが無くて全体的にどこか楽しい、まさに「祭」と言えるものになっていた。
以前に自分はレビューでこう言う『ドラゴンボール』の孫悟空のような「ただ純粋に戦いを楽しむ」と言う部分が太公望にも少なからずあるのではないかと書いた事があるが、この「また派手にやろう!!」と言う言葉にはそれが表れているような気がする。(因みに『ドラゴンボール』の天下一武道会は劇中では「お祭り」のような扱いになっている)

 

歴史が修正されて「桃の花咲き誇る美しい未来が戻ってきた」。
深い意味は無いのかもしれないが、太公望が桃好きなので、太公望の人生にはあちこちで桃が関わっている。(例えば太公望が姫昌と出会えたのは「仙桃3個を取引材料に白鶴童子を人間界に連れ出す事に成功したから」となっている)
なので、ここで神農が言った「桃の花咲き誇る美しい未来」は「太公望の人生」を意味していると考える事も出来る。

 

「わしはこれからもみなを見て……」キラキラ。
この場面の太公望が地球と融合する妲己のパロディに見えて笑えるw その表情は何なんだw

 

雉鶏精の問題を解決した太公望は「自分はもうこの世界に必要無い」と言って地球と融合しようとするが神農に「祝融の地球破壊宝貝と燧人のビッグバン宝貝が残っている」と言われて急いで旅に出る事に。
自分の考えだと神農のこの言葉は嘘。と言うのも太公望は禁光銼の事を「最後のスーパー宝貝」と言っていたし、伏羲の記憶を持っている太公望祝融と燧人のスーパー宝貝の事を知らなかったとは考えにくい。
おそらくだが、太公望の本音は「まだ地球と融合したくない」「四不象達と一緒にいたい」であろう。しかし、最初の人である自分が世界に残ったままだと必ず何か問題が起きると太公望は考えていた。しかし、最初の人絡みでまだ他に問題が残っているのなら、太公望は地球との融合を後回しにしてその問題を解決しなければならない。つまり、神農は太公望が地球と融合するのを後回しにする理由を与えてくれたのだ。

 

少し前に王天君は太公望の自堕落桃ツアーに呆れて家出をしたと説明されている。しかし、太公望が桃の食い倒れ旅行をしていた本当の目的は最初の人と会う為であり、太公望と同一人物である王天君がそんな太公望の本当の目的に気付かなかったとは考えにくい。となると、王天君が家出をした理由は他にあると考えられる。
太公望が四不象達の所に帰りたいが帰れない理由として、一つは自分が最初の人であるからと言うのがあるが、もう一つ「王天君として楊戩の父や黄飛虎や天化や十二仙達を殺したから」と言うのもあると思われる。そこで太公望の本音に気付いた王天君は「自堕落に呆れた」と言う嘘を吐いて太公望から離れたのではないのだろうか?
『外伝』では太公望から家出した王天君のその後は描かれていないが、どこかで四不象と一緒にいる太公望を見て「ダセッ。とっとと素直になれよ」と悪態を吐いているのかもしれない。

 

四不象と一緒に旅立つ太公望を見て神農は「キミはそうじゃないとね。僕らが残した希望なんだから」と告げる。
神農が言った「希望」とは何なのか? 「またウルトラマンの話かよ」と言われそうだけれど、自分はウルトラマンのレビューを書いている人間なので、ここでちょっとウルトラマンの話を。
M78星雲光の国から地球にやって来たウルトラマン。地球人から見たら巨大で様々な能力を持って不死に近い存在でもあるウルトラマンや科学が発達した都市である光の国は「まだ手に入れる事が出来ていない未来」として素晴らしいと思うものである。しかし、実は光の国は太陽が爆発した時に人工太陽の開発で滅亡の危機は乗り越えられたが自然は蘇る事が出来ず、ウルトラマン達の姿もその人工太陽が発する光線に含まれていた特殊な成分を浴びた事で進化して変化したものであった。なので、ウルトラマン達から見たら未熟ながらも一生懸命に生きている地球人達や緑溢れる自然が残っている地球は「もう手に入れる事が出来ない過去」として素晴らしいと思うものであった。
これと同じ事が地球人と最初の人達にもあるのかもしれない。地球人から見たら神とも言える程の力を持つ最初の人は素晴らしいと思う存在であるが、実は最初の人達も地球人の事を素晴らしい存在と思っているのかもしれない。
ウルトラマンタロウ』の最終回では主人公である東光太郎(ウルトラマンタロウ)が変身アイテムと一緒にウルトラマンの能力も捨てて地球人として生きていく事を誓って最後は地球の人々の雑踏の中へと消えていった。又、『ウルトラマンレオ』の最終回でも故郷であるL77星を失って地球を第二の故郷としていたおおとりゲン(ウルトラマンレオ)は最後は戦いから身を引いて自分の故郷となった地球の自然を確認する旅に出た。
最初の人達は女媧は離れた場所から地球の歴史を操作しようとして、神農達は地球の自然と融合した。果たして、これらは「地球で生きる」と言えるのであろうか? ひょっとしたら神農達は地球の自然に囲まれた中で地球の人々と一緒に泣き笑いしながら生きていきたかったのかもしれない。最初の人でそれが出来るのは地球の自然とまだ融合していない伏羲(太公望)だけである。だから、伏羲(太公望)は最初の人達にとって「希望」なのかもしれない。

 

今回のタイトルは「希望」ではなくて「喜望」。ここに今回の『外伝』の全てが込められていると言える。