『劇場版忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師』
2024年12月20日公開
※自分が『忍たま』を見ていたのは2017年放送の25期までなので今回のレビューはそれまでの知識で書いています。
『忍たま乱太郎』三作目の劇場作品。
2013年に発売された『小説 落第忍者乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師』を映画化したもので、小説を手掛けた阪口和久さんが脚本を担当している。
阪口さんは『忍たま』のミュージカルもいくつか担当していて、今回の映画もいつもより高めの年齢層も意識した内容になっている。
自分は『忍たま』については25期までの知識しか持っていないのだが、それでも支障無く見る事が出来たので、自分のように『忍たま』をしばらく見ていない人でも大丈夫な作りになっていたと思う。『忍たま』を全く知らない人は前作の映画である『忍術学園全員出動!の段』を見ておけば大体の話は理解出来ると思う。
ちょっと残念なのは今回の映画を見て『忍たま』に興味を持った人におすすめの話を教えたくてもその話が配信されていないのがあるところかな。NHKアニメだからなのか分からないが『忍たま』はもう少し配信に力を入れてほしいなと思う。
今回の映画化にあたって原作の小説とは内容が色々と変えられている。ざくっとまとめると「原作小説は学園長が作ったパワーバランスがドクタケ忍者隊最強の軍師によって壊される話」で「映画は忍術学園の土井半助先生が消息不明になったので皆で探して助け出す話」となっている。
原作小説はパワーバランスの話なので学園長が周辺の国に警告と言う名の脅しをかける場面等があるのだが映画では「土井先生を助ける」以外の忍術学園関係の場面はカットされるかさらっと流されるかされている。
原作小説は国家や組織間のパワーバランスや戦争における戦術・戦略が大きく扱われた話になっているが、文字で構成されている小説と違ってアニメでこれらを扱おうとすると説明台詞がかなり多くなる上に家族連れと言ったライト層向けではなくなる恐れがあるので、映画では「土井先生を助ける」にテーマを絞ったのは正しい判断だったと思う。
賛否両論あったなにわ男子の大西流星さんと藤原丈一郎さんが声を当てたオリジナルキャラクターだが実際に見たら違和感は感じなかった。
六年生6人がかりでも手も足も出ない天鬼が相手なので低学年の忍たまを出すわけにはいかないので、忍術学園を去年卒業した新人のプロ忍者を使う事になる展開はなるほどであった。今回をきっかけに今後は彼ら以外にも忍術学園の卒業生が出てくるようになるのかな。
声に関しては違和感を覚える棒読みではなかったと思う。特に藤原丈一郎さんは説明されなかったら芸能人声優と気付かないレベルであった。大西流星さんはちょっと声が高すぎるかなと感じたが、その声の高さが利吉さんや昆奈門と言ったベテランのプロ忍者と並ぶとまだまだ若くて新人と言う感じになるので役に合っていたと思う。
ちょっと話が逸れるが、漫画やアニメが映画化したり洋画が日本公開される時に本職の声優ではない人がキャラクターの声を当てる事になって賛否両論が起きる事がある。どうしてそういう事が起きるのかだが、自分はTV等のメディアが基本的に「芸能人を取り上げるもの」なのが原因なのかなと考えている。
ニュース番組やワイドショーの芸能コーナーを見ると「○○と言う漫画やアニメが映画化した」より「芸能人の△△さんが今度映画になった○○に出演した」と言っているのを多く聞く気がする。ニュースの主体が「作品」ではなくて「芸能人」になっていると言えば良いだろうか。
TV等のメディアは基本的に「芸能人を取り上げるもの」だと考えると、映画化等でより多くに人に向けて宣伝をしたい時にこう言ったメディアに取り上げられる為には芸能人を作品に組み込まなければならないとなって、有名芸能人を声優や主題歌に起用して「芸能人の△△さんが関わった」と言う形を作っているのかなと思う。(映画の宣伝番組で映画の内容についてはちょろっと触れられるだけで番組の殆どが映画に出演した芸能人のトークや食レポ等に当てられるのも「メディアは作品ではなく芸能人を取り上げるもの」だと考えると理解できる)
映画に限らず商業作品は良い成績を収めないと次に繋がらないしスタッフやキャストの今後にも関わってくるので成績は良いに越した事は無い。なので、今回の映画でなにわ男子を起用して様々なメディアに取り上げられて普段は『忍たま』を見ていないかもしれないなにわ男子のファンを映画館に集めた事は間違ってはいないと自分は考える。
芸能人が声を当てる事に賛否両論が出るのは過去に棒読みだったりキャラクターに合っていなかったりした事が何度もあったからで、逆に言えば芸能人声優の外れが少なくなればイメージが変わって否定意見も少なくなる可能性がある。例えば次の『忍たま』の映画で芸能人の誰かが声を当てるとなった時に「前回のなにわ男子は大丈夫だったなぁ」と言うのがあるのと無いのとでは状況は大きく違っているはず。
とは言え、宣伝の為に元々無かった要素を作品に組み込むと言う形に変わりは無いので「今回の芸能人声優は良かったね」と言われても「そもそも宣伝の為に関係無いものを作品に組み込む事が嫌だ」と言う人が出てくるのも当然な話で、これについては人それぞれ考えや気持ちが違うので全員が理解して納得して幸福になれる答えを出すのは難しい事であろう。
『忍たま』は戦乱の世を舞台にしていて今回はその辺りにもガッツリと触れているが、TVシリーズを見ている子供達に配慮してか戦争の犠牲については彼岸花と案山子を使って直接見せないようにされていた。まぁ、逆に怖くなった感じもするが……。直接的な描写を避けた為に却って見ている側の想像力が働かされてしまったのかもしれない。
『忍たま』が舞台になっている時代を考えたら戦争の犠牲は避けては通れないものだし、今現在も世界中で戦争が行われて多くの犠牲者が出ている事を考えたら、多くの子供が見るであろう今回の映画で戦争の犠牲について語られたのはとても大事な事だと思う。直接的な描写ではなかったので子供達は「なんだか怖い場面だった」で終わってしまうかもしれないが成長したらあの場面の意味が分かって色々考えるきっかけになるのかもしれないと自分は思っている。
彼岸花と案山子の場面は最初は土井先生の過去かきり丸の過去か分からなかったが、これとは別にきり丸の過去が出てきているので、こちらは土井先生の過去と言う事なのかな。
土井先生の過去が全体的に赤かったのに対してきり丸の過去は全体的に白くされていた。又、土井先生の過去が炎が燃えさかる苛烈な戦を連想させるものだったのに対してきり丸の過去は縁の下で雪の寒さに独り死にかけるとなっている等、両者の過去は真逆にされている。「土井先生ときり丸の段」で二人は似たような境遇だったと語られているので、ひょっとしたら、きり丸にも今回の土井先生の過去のような燃えさかる炎に包まれるような記憶があって、一方の土井先生にもきり丸の過去のように雪の中で独り寂しく死に瀕していた時があったのかもしれない。
今回は他にもドクタケの町で飢えや貧困に苦しむ人々が描かれていた。土井先生やきり丸やドクタケ城下の人々が戦で苦しんでいる姿を見ると16期の「屋敷を爆破するの段」で土井先生がきり丸に語った「戦とは勿体無いものさ。浪費と破壊と消耗。そこからは何も生み出すものは無い」を思い出す。
これらの流れを見ると最後に土井先生がドクタケの戦を止めてその為に用意された食料を苦しむ人々に分け与えた結末は納得しかない。
ところで土井先生の過去の場面にあった彼岸花と案山子が戦争の直接的な表現を避ける演出だとしたら、きり丸の過去にあった雪の場面も何かの直接的な表現を避ける演出だったのだろうか?
「降り積もる白いもの」で雪の他に連想されるものは灰あたりであろうか。ひょっとしたら、あの場面は焼け野原にされた故郷の村で燃やされた家族や建物の灰が降り積もる中、きり丸が独りで震えていた場面だったのかもしれない。
実を言うと原作小説を読んだ時は土井先生を倒して意気揚々としている尊奈門にちょっとイラッとしたのだが、今回の映画では一年は組の前で昆奈門にギッタギタにされて土井先生を危険にさらした償いをされていたのでこちらの溜飲を下げる事が出来た。(因みに原作小説では昆奈門は一年は組への償いの為ではなく尊奈門の至らない部分を補完させる為に質問攻めをしていた)
土井先生が崖から落ちる事になったきっかけや八方斎が非道になった理由や子供を殺す事に躊躇を見せた風鬼等、今回の映画は原作小説よりヘイト管理が上手かったと感じた。
基本的に今回の映画の昆奈門は忍術学園とは敵対関係になりたくないし忍たまとの関係も潰したくないと考えていた。だから、学園長の脅しに素直に従って教師を引き受けるし、尊奈門には土井先生を危険にさらした償いをさせるし、事件解決後は土井先生を自分の手で殺して忍術学園を敵に回すような事態にならなくてホッとしている。
昆奈門が忍術学園と敵対関係にならないように尽力したのは単純に忍術学園の戦力が侮れないからと言うのもあるが個人的な思いも結構強かったと思う。今回の「忍たまと繋がりを持った土井先生」と「忍たまとの繋がりが切れた天鬼」は「忍たまと繋がりを持った後の昆奈門」と「忍たまと繋がりを持つ前の昆奈門」に重ねられるところがある。土井先生は記憶喪失と言う不測の事態で忍たまとの繋がりが切れてしまったがクライマックスの昆奈門は土井先生を自分の手で殺すと言う行為によって自ら忍たまとの繋がりを切るところだった。天鬼と違って記憶を持ったまま忍たまとの繋がりを失う事は今の昆奈門にとって出来れば選択したくない事だったと思われる。
昆奈門にとって土井先生を殺して忍たま達との繋がりを切って忍術学園と敵対する事はデメリットでしかないのだが、それ以上に天鬼を手に入れたドクタケがタソガレドキにとって脅威であったと考えられる。
途中、昆奈門がドクタケの動きについて山田先生に意見を求めて山田先生が自分より兵法に詳しい土井先生なら何か分かるかもと答える場面がある。自分が一目置く実力者である山田先生よりも兵法に関しては土井先生の方が上と言う情報を得た昆奈門は土井先生の知略を警戒して抹殺の可能性も視野に入れたと思われる。
尊奈門が一年は組に土井先生が消息不明である事を喋ってしまった時の山本シナ先生の表情が良かった。
基本的に山本シナ先生は本心を見せない人で、「怖い」「怒っている」と言った場面があってもそれは厳しい指導の一環であって感情的になっているわけではない。それが尊奈門の失言の時はマジでイラッとしたのが出ていて、普段は見る事の無い彼女の本心が見られた気がした。
前回の『忍術学園全員出動!の段』は大規模な戦の話なので人手がいるとして忍術学園が全員出動する事になったが、今回はドクタケ忍者隊の軍師の正体を探る為に敵地に潜入する話なので少数精鋭として五年生と六年生だけが出動したのは自然な流れであった。どう考えても天鬼や昆奈門が敵として立ちはだかる恐れがある場所に四年生以下を出すわけにはいかない。
でも、「ナメクジと同列扱いされる先輩達」で四年生と三年生は出てきたのに二年生は出てこなかったのは残念だった。物語には直接絡まなくても忍術学園の生徒は全員出してほしかったかな。
原作小説では一年は組の出番は少ないのだが、今回の映画では中盤で乱太郎達が土井先生の消息ときり丸の本音を聞いて立ち上がる展開になっていて、一年は組が動いた事で映画の後半はシリアスながらも多くの人がイメージするであろう『忍たま』の雰囲気になった。
ミュージカル版は役者の都合で上級生やプロ忍中心になるのは当然だし、いつもとは違う『忍たま』が見られてこれも面白いと思うが、アニメは乱きりしんを中心とした一年は組の話であってほしいと自分は思っているのでこの変更は嬉しかった。
八方斎は原作とアニメではキャラがちょっと違っていて『落第忍者乱太郎』の八方斎なら子供を殺そうとするのも十分にアリなのだがアニメの八方斎なら悪役でもお茶目で可愛らしいところは残してほしいなと思っていたので「土井先生だけでなく八方斎も頭を打っていつもと違っていた」としたのは上手い落とし所だったと思う。
それはそれとして「斬ってしまえば良いんだ」と呟いた時の八方斎の声は聞いてゾクッとする怖さがあって悪役としてとても魅力的で素晴らしいものであった。
アニメでは風鬼の息子であるぶぶ鬼ときり丸を始めとする忍たま達が関わる話がいくつかあって風鬼自身も忍たま達と関わる事が多いので、八方斎が天鬼にきり丸達の殺害を命じた時に風鬼が狼狽えてくれたのは嬉しかった。
アニメを見ているとドクタケ忍者隊は憎めない奴らなのであまり非道な奴らにしてほしくないと言う気持ちが出てくる。
事件解決後に昆奈門が呟いた「忍術学園を敵に回さなくて良かった」にはおそらく二通りの意味があって、一つは「忍術学園を相手に戦うのはタソガレドキであっても大変だった」で、もう一つは「ここで自分が土井先生を殺したら忍たまとの繋がりが失われてしまう」であったと思われる。今回の昆奈門は「タソガレドキの今後」と言う忍者隊組頭としての部分と「忍たまとの繋がり」と言う個人的な部分があったが、最終的に天鬼の暗殺を実行しようとしたところを見るに昆奈門は最後は自分個人の都合よりタソガレドキ忍者隊組頭としての責任を選択する事が示された。
風鬼も同じで天鬼が八方斎の命令できり丸達を殺したらドクたまと忍たまの繋がりは失われて自分と息子の関係も悪化する恐れがある事は分かっていたのだが、ドクタケ忍者隊首領の八方斎から作戦の真意を伝えられるほどの立場にいる風鬼が天鬼が土井先生に戻って忍術学園に帰還する可能性を潰すと言うドクタケにとって利益しかない作戦を邪魔する事は出来なかった。
昆奈門の「忍術学園を敵に回さなくて良かった」と風鬼の「土井先生がきり丸達を殺さなくて良かった」は一人の人間としての気持ちとそれでもどうしようもできない戦国時代に生きる者達の大変さが分かる言葉であった。
大黄奈栗野木下穴太は好きなキャラなのだがさすがに情報漏洩が酷すぎるだろw よく処罰されないなぁ。
魔界之先生と土井先生の話が好きなので魔界之先生が天鬼になった土井先生にどのような反応を示すのか見てみたかったが、それをしたら90分で話が終わらないか……。残念。
八方斎が漫画や歌で土井先生に偽りの記憶や価値観をすり込む場面はギャグシーンになっているが、よく考えたら「目や耳にする書物や歌が全てある特定の思想に染める為の洗脳の道具であった」と言うのは結構怖い。
記憶喪失なので仕方が無いところはあるが、天鬼は戦術や戦略を考えるのは見事でも何が正しくて何が間違っているかについては全く考えられない人物で、そんな天鬼が大規模な戦の準備を進めて多くの人が命の危機に陥る状況を作り出していたと言うのは現実の戦争やテロの話にも通じるところがあって色々と考えさせられるものがあった。
流血に驚いた六年生と天鬼の戦闘シーン。
直前の六年生が武器を用意する場面で「格好良い」「強そう」と言う印象を観客に与えたところで天鬼が六人を圧倒する展開は天鬼の強さ表現として見事であった。
又、映画の冒頭で土井先生と尊奈門の戦いがあるのだが、その時のお互い怪我をしないようにと立ち回っていた土井先生の姿勢との比較で相手を傷付ける事に一切の躊躇が無い天鬼の恐ろしさが引き立っていた。
これまでの話では「土井先生は強くても山田先生や昆奈門ほどではない」と言うイメージがあったのだが、今回の映画を見たら「優しさを捨てた土井先生はひょっとしたら『忍たま』でも最強格に位置するのでは?」と思うようになった。
ここでの天鬼の相手が六年生だったのは上手い選択だったと思う。これが五年生以下だったら天鬼はもう少し手加減をして相手の忍たまも流血までいかなかっただろうし、逆にプロ忍の利吉さんが相手だったら天鬼はもっと全力で息の根を止めに来て下手をしたら死人が出ていた恐れがあった。
又、プロ忍レベルの課題もこなせる六年生だったので記憶を失った土井先生との戦いで負傷しても「自分達の鍛錬が足りなかったので土井先生の攻撃を防ぎきれなかった」とする事が出来た。もしこれが下級生だったらたとえ記憶喪失中の行為だったとしても土井先生の精神的ダメージは大きかったであろう。
六年生は組ごとのコンビがお互いをフォローしている感じがしっかり出ていた。
特に土井先生の消息を探っていた時の「生きていない場合を考える時が来た」と言う文次郎の発言に長次が感情を爆発させてそれを小平太が止めるのはいつものイメージと違っていて印象に残る場面となった。
保健委員会なのでいつもは皆が怪我をしないようにしている伊作が六年生全員がかなり大きな怪我をしたのに「かすり傷です!」と先生達に啖呵を切った場面は驚いた。
この場面は六年生にとって土井先生は大切な人である事が伝わるものになっていた。
クライマックスが思ったよりあっさりしていた感じを受けたが、原作小説ではきり丸の本心を最後まで抑えていてその吐露がクライマックスになっていたのだが、映画では中盤できり丸が乱太郎達一年は組に向かって「土井先生に会いたい」と本心を打ち明けているので、その分だけクライマックスでのきり丸の告白のインパクトが弱くなってしまったのかもしれない。
映画では昆奈門が土井先生の暗殺を決断して実行に移すと言う要素が新たに加えられているので、「土井先生と言う存在が死んでしまう恐れ」と言うクライマックスを原作小説は精神的(=教師が教え子の命を奪って鬼に成り果てる)に、映画は物理的(=昆奈門が毒の手裏剣で土井先生の命を奪う)に描いていたのかもしれない。
実は土井先生は少し前に記憶を取り戻していたのだが、よく考えたらその場にいた乱きりしん、八方斎とドクタケ忍者隊、六年生、山田先生、利吉さん、昆奈門の全員がそれに気付いていなかった。
記憶喪失だった人間がいきなり記憶を取り戻したら「ここはどこ? 私は一体何を?」とか言う反応を見せるのが普通なのだが、土井先生は瞬時に自分達が置かれている状況を把握して皆に気付かれないように演技を始めて見事に皆を騙して事態を忍術学園の勝利へと導いた。
映画では尊奈門との戦いや天鬼としての戦の進め方等で土井先生の戦術・戦略の凄さを描いていたがそれが最も発揮されていたのはこのクライマックスの場面だったと思う。
衝撃だった利吉さんの「お兄ちゃん」発言。
土井先生が山田家にお世話になっていた時期があったので利吉さんが土井先生の事をこう呼んでいた可能性は十分にありえたのだが不意打ち過ぎて驚いた。アンタ、事件が解決して「さぁ最後のまとめをしてエンディングだ!」と言うタイミングでとんでもない爆弾をぶっ込んできたなぁ。
思えば「半助」「土井先生」と呼ぶ人はたくさんいるけれど彼を「お兄ちゃん」と呼べる人はおそらくこの世で利吉さんだけであろう。本当に土井先生の記憶が戻ったのか確かめる為に口にしたとも考えられるが、「土井先生が一年は組の皆の所に戻ってきた」と言うタイミングでこの世で自分だけが使う事が出来る「お兄ちゃん」を出してきた事で利吉さんの独占欲的なものが垣間見られた気がした。
今回の映画のパンフレットは二種類あって豪華版に収録されている藤森雅也監督のインタビューに「利吉は天鬼が刀を振り上げたとき、天鬼を狙う雑渡昆奈門の手を止めました。利吉はいざというときは土井先生を選ぶ」と言う一文があって、それを最初に読んだ時は「土井先生が殺されそうになった時に利吉さんが全力で助けに向かうのは当然でしょ?」と自分は監督の言葉の意味がよく分からなかったのだが、よく考えて、あの場面が「土井先生を殺さなかったらきり丸達が殺されていた可能性があった」と言う事に気付いて思わずゾッとした。
昔、つどい設定を見た時に「利吉さんってそんな闇を抱えている人なのかな?」と正直言って違和感を覚えたのだが、今回の映画での土井先生ときり丸達を天秤にかけた時に瞬間的(=無意識的?)に土井先生を助ける方を選んでしまったり、最後のあのタイミングで「お兄ちゃん」と言う言葉を出してくる利吉さんを見てちょっと分かったような気がした。
昆奈門が毒の手裏剣で土井先生を殺害しようとするのを阻止する時に利吉さんは昆奈門ですら手袋を付けて毒の手裏剣を扱っているのに躊躇無く素手で止めていた。
状況的に他に方法が無かったのもあるが、ひょっとしたら利吉さんは忍たまだけでなく自身の命すら土井先生救出の前では捨てられるのかもしれない。(この場面の前でも利吉さんは土井先生を守る為に天鬼の正体について雇い主に嘘の報告をすると言う今まで自分が忍者の世界で築いてきた信用が全て壊れる恐れがある判断をしている)
一歩間違ったらきり丸達が殺され、自身も毒の手裏剣で命を落として、土井先生に戻らなかった天鬼はそのまま大規模な戦を起こして多くの犠牲者が出る恐れがあったとしても利吉さんはとっさに土井先生の命を守る選択をしたと考えると、豪華版パンフレットの尼子騒兵衛さんのインタビューにあった「利吉は土井に思慕の気持ちを抱いている」と言う一文が滅茶苦茶重さを増す事になる。
上に挙げた解釈での利吉さんの何が哀しいって、おそらく土井先生は一年は組の良い子達を自分の手で殺すくらいならその前に自分を殺してほしいと願うだろうし、利吉さんもその事をよく分かっていそうなところなんだよなぁ……。基本的にハッピーな『忍たま』の世界で利吉さんだけどうしてこんな闇を……。(でも、24期の「忍びの山田利吉の段」も好きなので実は自分はこういう危うい利吉さんが好みなのかもしれない。考察しがいがある)
山田先生は利吉さんをプロの忍者として認めているけれどやはり親として子供扱いしてしまうところもあって、今回の映画だと「天鬼の正体が土井半助と知ったら利吉は冷静ではいられない」「昆奈門の足止めで命が危なくなったら退け」は父親の部分が出ていたところだと思う。
結局、利吉さんは命の危機に陥っても土井先生を助ける為に昆奈門に食らいつくと言う危険を冒すわけだが、土井先生と利吉さんが一緒に暮らしていた頃を知っている山田先生はこうなる事が分かっていたのであえて「自分の命が危なくなったら退け」と警告していたのかもしれない。
山田先生の警告に対して利吉さんは表向きは警告に従ったが実際は従わなかった。その事を山田先生は予想していたのかいなかったのか……。山田先生には息子の利吉さんの事は全てお見通しであってほしいなとも思うが、利吉さんには父親の山田先生にも分からない秘めたるものがあったと言うのも面白いかな。
どうして利吉さんはどこかの城に勤めないのだろう?と今まで不思議に思っていたが、今回の映画を見て、最終的には上の命令に従う昆奈門や風鬼と違って利吉さんは最終的には父の山田先生の警告にも思慕を抱く土井先生の願いにも従わないで自分の心に従って動く事が分かった。この人は何者にも縛られない「フリーの忍者」だったのだ。
土井先生の天鬼での行いは「記憶喪失の時に八方斎に洗脳されていた」で何とかなるが、土井先生と忍たまの両方が危機に陥った時に自分の判断で忍たま達より土井先生を選んでしまった利吉さんはこの事についてかなり引きずりそう。
だからこそ「お兄ちゃん」と言う自分と土井半助が家族として過ごした時代の言葉を持ち出して「家族を救おうとした自分の判断は間違っていなかった」として何とか正当化しようとしたのかもしれない。
でも、この後しばらくは乱太郎達がいつものように利吉さんに懐いてきてもそれに対して利吉さんは罪悪感を抱きそうだなぁ……。(そういう場面を見てみたいがTVシリーズではまずやらないだろうしTVシリーズではやらない方が良いと思う)
利吉さんと小松田さんは「優秀なプロの忍者」と「へっぽこな忍者」、「田舎育ち」と「都会育ち」と言ったように対になっている要素が多くある組み合わせになっているが、今回の映画で「立場上、兄代わりの土井先生に甘えられない利吉さん」と「普通に兄に頼る事が出来る小松田さん」と言う対もあったのかなと思った。
自立できていない小松田さんに対してしっかりしている利吉さんのように見えて実は「土井先生に依存・執着していそうな利吉さん」と「兄とは違う道を歩める小松田さん」と言う逆転現象が垣間見えて興味深い。
と言うのもつどい設定で「土井先生が忍術学園を辞めて孤児院を開く」「その孤児院に利吉さんが女中に産ませた自分の子供を預ける」と言うのがあるのを聞いて昔は「利吉さん、ヤっちゃったんだね……」くらいにしか思っていなかったのだが今回の映画を見てパンフレットのインタビューを読んだら「忍術学園の時は「父親に会いに来た」「仕事の関係で来た」「食堂のおばちゃんの料理を食べたくなった」で会いに来れたのが土井先生が忍術学園を辞めた事でこれらの理由が使えなくなったので「自分が預けた子供に会いに来た」と言う理由を作って土井先生に会いに来るようになった」と考える事が出来てしまったので。
フィジカルに関しては圧倒的に利吉さんの方が小松田さんより上だけれどメンタルに関しては意外と小松田さんの方が利吉さんより強いのかもと今回の映画とパンフレットのインタビューで感じた。
それにしても豪華版パンフレットのインタビュー内容は衝撃だった……。それを読む前の今回の映画での利吉さんへの感想は「皆の絶体絶命の危機に追いついてきた利吉さんはやっぱり凄い!」と「利吉さんにも土井先生を「お兄ちゃん」と呼んでいた素直な少年時代があったんだなぁ」であった。
自分は金曜日は仕事だったので土曜日の午前に映画を見に行って午後にレビューを書いて、さぁ、パンフレットを読みながらレビューの誤字・脱字を点検・修正して夜7時頃に記事をアップしようかなと思っていたらパンフレットに載っていたインタビューを読んでその意味を理解した時に衝撃のあまり利吉さん関係を全部考え直して自分なりの答えを見付けるまで数日かかってしまいレビューの分量も倍以上に膨らんでしまった。
『忍たま』に腐的なものが存在する事は当然知っていたけれど自分の中にはそういう考え方はあまり無いなぁと今まで思っていたのだが、ぶっちゃけ今回の映画の利吉さんには色々考察したくなる深みを感じた。これが「沼」と言うやつであろうか。それほどまでに今回の映画の利吉さんの言動とあのパンフレットのインタビュー内容は衝撃だった。「格好良いお兄さんキャラ」だと思っていた利吉さんにこんなとんでもないものが秘められていたとは……。
クライマックスでの利吉さんの選択だが自分は今回は特殊なケースだと考えている。
あのクライマックスで「子供達を守る」を考えられなかったのは八方斎と天鬼と利吉さんの3人。その中で八方斎と土井先生は頭を打った衝撃でいつもと違っていたと説明されている。そして自分は利吉さんも物理的に頭を打たれたわけではないが「土井先生が記憶を失って敵になってしまった」と言う状況に精神的に頭を打たれた状態だったと考えている。山田先生が「ドクタケ忍者隊の軍師の正体を知ったら利吉は冷静でいられない」と言ったとおり映画後半の利吉さんは冷静さを失っていた状態だった……と自分は信じたい。
今回の映画は全体的にシリアスで特に後半は『忍たま』としては異質なほどにウェットな話になっていたのだがしんべヱが喋るといつもの『忍たま』の雰囲気を思い出す事が出来た。改めて『忍たま』と言う作品にとってしんべヱの存在が大切な事が分かった。
それにしても最後の五年生はどうしてあんなにぴょんぴょん跳ねていたんだろう?(跳ねるか跳ねないかで言ったら五年生は跳ねそうなんだよね。逆に四年生や六年生は意外と跳ねない)

