「殿様がうらやましいの段」
『忍たま乱太郎』25期第60話
2017年10月23日放送
人間は今より良い生活をしたいと考えるもので「お金に囲まれている」「美味しい食べ物に不自由しない」「お茶等の教養を嗜む事が出来る」と言った生活は多くの人間にとって「良い生活」と言えるだろう。
殿様になればお金に囲まれて美味しい食べ物に不自由せず教養を身に付ける事も出来るが、一方でその地位や権力や財力から多くの者に命を狙われる事となる。どんなにお金に囲まれて美味しい食べ物を食べられて教養を身に付けられたとしても死んでしまったらお終いなのだ。
しかし、『忍たま』の難しいところは「殿様は贅沢な生活が出来るけれど一方で命の危険もあって大変だね」で話が終わらないところ。なにしろ、贅沢な生活をしていなかった庶民であるきり丸も村を焼かれて家族を皆殺しにされているのだ。殿様であろうと庶民であろうと死は全ての人間に等しく訪れてしまう。
乱太郎達は「自分達が殿様だったら」と言う「もしも」の世界を妄想するが、その妄想の世界で「殿様になっても命を狙われて死んでしまう」と言う結末を見る事となる。ここで「たとえ殿様になっても命を狙われて殺されてしまうんだから生きている事に意味なんて無い」とならずに「もしも自分が殿様だったらと妄想したら最後は命を狙われて殺されてしまった。だったら、妄想の世界ではなく今の現実の世界をしっかりと生きていこう」となったところに乱太郎・きり丸・しんべヱの「生きる強さ」を垣間見た気がする。
今回の話を21世紀の日本でするなら途中出てきた朽ちた城は夢の産物かふと現れた異世界の建物と言う感じになると思うが、今回の話で乱太郎達は「あの城は一体何だったんだろうね」と言う類の話をしていない。つまり、あの城は夢の産物でもふと現れた異世界の建物でもなくて実在するものだったと言う事になる。
10歳の子供がお使いの帰り道にふと道を外れたら弔いもされていない廃城に迷い込んでしまう。「生の世界」のすぐ隣に「死の世界」があると言う事で『忍たま』が21世紀の日本ではない「戦国時代」を舞台にしている事を改めて感じた。
今回の話は『忍たま』では珍しく「人の死」を感じる話であった。
昔に比べて生活の中で「人の死」に触れなくなった今の時代で、『忍たま乱太郎』と言う番組の対象年齢を考えると、今回の話で「生まれて初めて人の死と言うものを感じた」と言う子供もいるのかもしれない。
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